情景描写と人物のセリフとが美しいリズム感を刻みながら流れるように進んでいく特徴的な文体と、けっして古びることのない、平成の世にも十分に通じるテーマで小説を書いたのは、明治25年、一葉が20歳のときでした。20歳といったらわたしと同じ! そしてそれからわずか4年後には亡くなってしまうなんて…
■大つごもり 1894(明治27)年
病気の親戚の生活窮を見かねた娘が、奉公先のお金を盗んでしまうのを、その家の放蕩息子がしっかり見ていて、粋なはからいをしてくれる。よくできた人情落語かなにかのような、ほっとするお話です。
簡素な内容なのですが、登場人物の設定は細かい部分まできっちりされています。こういうところが小説に奥行きを持たせるために必要なことなのですね。とても勉強になります。
■ゆく雲 1895(明治28)年
■たけくらべ 1895(明治28)年
吉原の風景描写がいいですね。それを囲む町屋の風俗と、思春期を迎えた少年少女たちの日常生活や喧嘩騒動などが生き生きと語られています。吉原という特殊な世界に身を置いている器量よしの美登利と、お寺の息子で少年らしい潔癖さを持っている信如とのあいだにいつしか生まれた淡い淡い恋心。でもそれが恋だということに気づくまもなく、それぞれに進むべき道がちがうふたりの初恋は静かに終わってしまうのです。冬の朝、水仙の花一輪だけを残して。まるで映画のラストシーンのようです。映画化された、たけくらべ――見たい!
もし、わたしに映像を撮る力があれば、この作品を映画にしてみたいと思います。廓の中のざわめき、お祭りのにぎやかさ、派手な喧嘩、しだいに口をきかなくなってくる信如と美登利、正太郎といっしょに錦絵を見ている美登利、そしていちばん大事なシーンが雨の日の信如と美登利。激しい雨に打たれ、ずぶぬれになりながら切れた鼻緒をすげようと躍起になっている信如のところに、美登利がぶっきらぼうに投げてよこした端切れ――雨に濡れたままいつまでもそこに残されています。そしてラストは門の前にそっと置かれた水仙の花。夜も明け切らぬ暗いうちに、それを置いて立ち去っていく信如の後ろ姿。なんてかわいいやつでしょう!なんかもう、ぎゅって抱きしめてあげたくなってしまうんです(^_^)
■にごりえ 1895(明治28)年
にごりえとは「濁り江」のこと。水の流れが澱んだ川とか入り江のことをいいますが、この「濁り」ということばにはもうひとつ、仏教の見地からは「煩悩」というような意味もあります。
酌婦お力は器量もよくて客あしらいも上手な、そのお店のみならず、そのあたりにいるホステスさんの中でも超売れっ子の女の子です。でも、生まれは貧しい身の上です。このお力と以前情夫の間柄だった源七という妻も子もいる男性、それがいまではすっかり落ちぶれてしまって、貧乏裏長屋に引っ込んでろくな稼ぎもないくせに、いまだにお力のことが忘れられません。この源七がおかみさんを追い出すシーンの描写は、よくまあここまで書けるものだと感心します。夫婦喧嘩をしているふたりの心の動きはこの時代もいまとたいして変わらないのもおもしろいけど、わたしには若い一葉にどうしてこんな離婚騒動が書けるのかふしぎでした。それにも増して、なったこともないホステスさんの気持ちや、夜のお店の情景などをつぶさに調べ上げて書いていることにも驚きです。一葉も取材したのでしょうね。小説家っていうのは、つくづくすごい人種だと思います。
結局、妻子にも逃げられた源七は、お力を刺し殺してしまうんですが、平成のいまでも、こういう手段に出る男性って多くないですか?よく新聞などの記事を賑わせていますよね。男の人ってどうしてすぐこういうことするんでしょう。逆に女性は、自分の辛い身は辛い身として受け入れて、とにかくしっかり生きようと思います。お力だってそうでした。彼女も彼女なりに人生に悩んではいたのだけど、前向きに生きようとしてました。それなのに、逆恨みされて殺されてしまうんですからね、やりきれなくて腹立たしいです。
■十三夜 1895(明治28)年
冷たい夫の仕打ちに耐えかねて家を飛び出て実家に帰ってきたお関が、両親に語るその内容は、いまと変わりません。身分違いの家に嫁ぐといまでもこういう冷たい夫っているよねーと思いながらページをめくります。結婚するまではやさしいくせに、結婚したとたん手のひらを返したように冷たく当たる人いますよね。
お関さんの夫は有力者なものだから、弟の就職も世話になったし、置いてきた子どももやっぱりかわいそうだからと、親に諭され思い直して帰ることにするのですが、やはりこのへんが時代性なのでしょうか。産まれた子は嫁ぎ先の家のものという考え方があるんですね。だからいっしょに連れてくることもできなかったわけです。いまなら、子どもをいっしょに連れて家を出てきてもおかしくないですから。結局、お家が大事ということで、自分のしあわせを捨てることにしたお関さん。17で見初められて結婚してから7年ということなのでまだ24歳くらいなのに…
帰りに頼んだ人力車の車夫が、むかし好いていた男のなれの果てだったという展開も、どうにもならない人生の悲しみ、諦観とでもいうべきでしょうか。封建的社会の中で苦しむ女性、頭のいい一葉は自分もそんなふうに思っていたのでしょうか。
■うつせみ 1895(明治28)年
空蝉――セミの抜け殻の意味ですが、平安以前の元々の意味は「現し臣(うつしおみ)」から、「この世の人」というものでした。一葉もこの作品の中ではそちらの意味で使っています。古今和歌集の「空蝉はからを見つゝもなぐさめつ」という歌が最後に使われていますが、この歌の空蝉には両方の意味が込められています。
好いていた男の人が自殺してしまったことで、それが自分の罪だと思いこみ気が狂ってしまったかわいそうな女学生「雪子」はいうなればうつせみ(=とり残されたこの世の人)。自殺した恋人はすでにこの世にいない人(=抜け殻だけを残して死んでしまったセミのような存在)です。どうにも救いようのない話です。ありもしない恋人の幻影を見ては泣き叫んだり、ご免なさいと謝ったり、ろくに食事もとらず日増しに衰弱していきます。季節はいつしか夏も終わり秋風がさみしく吹き渡るころになってしまうのですが…
■わかれ道 1896(明治29)年
ほのかに姉のように慕っていた女性が、どこかの妾になると聞かされて怒り出す少年。ほかに身よりもない傘屋の小僧で、背が低くあまり見栄えが良くないからみんなからは小馬鹿にされて、そのせいでちょっと世の中をすねている吉三は16歳。 このころ結核にかかっていた彼女の最晩年の作品です。なんとなく中途半端なところで物語が終わっています。この年に彼女が発表した作品は『この子』(1月)、『裏紫(上)』(2月)、『たけくらべ(改稿)』(4月)、『われから』(5月)、『すゞろごと』(7月)。