あいかわらずの、この、お話でございまする・・・
江戸の、寛文の年間に「きょうらん」売りというのが流行りまして、そのほかにも「なはめ」売りとか「けんしき」売りなんてェものが流行りまして、それぞれにかけ声がちがうもんでございます。「けんしき」売りになりますと、
「けん〜しき〜や〜、けん〜し〜きや〜けん〜しき」
こういうふうに、尻尾のほうが切れるのがこれが粋でございまして、
「きょうらん」売りとなりますとこれがちょっとちがいまして、下の方から上の方にずうっとこの音が上がっていくていうのが特徴でございまして、
「きょうらん〜、きょうらん〜、きょうらん〜はいらん〜か」
と、まあ、音楽的になるわけでございます。
「へれまかのせけへれみればされぐらし」ていう、そんな・・・
それぐらい当時の江戸というものは寒かった。
「ご隠居さん、ご隠居さん」
「どうした、トメじゃないか。はいんなよ、こっちへ」
「ええ」
「なにか用か?」
「用ってほかでもないんで、めけせけのことなンでございますがね」
「おまえはだから、ばかだばかだってェいわれるんだ、ん? めけせけぐらい知らないのか?」
「へえ、知りません」
「じゃあ聞くが、はかめろなら知ってるな?」
「えェ、はかめこは知ってるんでございますがな」
「知ってるな? はかめこの上がめけせれになるんだ」
「はあ・・・はかめこの上がめけせれね」
「わかったかい」
「へえ、わかりました・・・どうも、失礼」
「また来なよ」
てんで、これがまだわからずじまいですな。
(あすこの一目散逃走寺の住職に聞いてみよう)
「和尚、いますかね?」
「だれかな?」
「いえ、あのう、大工のトメでございます」
「おお、トメか。なにか用か?」
「ええ、せけめけのことについてお伺いしたいんでございます。せけめけとはいったい、えー、人生のなんたるや?」
「なにをぬかすか! せけめけか。せけめけというのは、仏教で言う、へれまかしのことじゃ」
「へれまかしと仏とは、どういう関わり合いがあるんですかね?」
「いい質問だ。へれまかしとは、上に三寸二寸の木々に屋根の瓦は落ちると――と」
「・・・どうもありがとうございました・・・弱ったな、ますますわかんないや・・・そうだ、あすこの若旦那に聞けばいいや、若旦那! 若旦那いるかね!?」
「トメじゃないか、どうした、上がんなよ、え? なんか用かィ?」
「えェ、あのぉ、せけめけについて聞きたいんで」
「あぁ、いいやつが来たね、ちょうどおれもせけめけについて話したかったとこだ。せけめけがどうした?」
「いや〜、せけめけ・・・わかんないんですがね」
「わからないのも当然だよお前、へけまかとせけめけがわかってたまるかよ、お前なんかにね。じゃあ、もろならわかるだろう?」
「もろはわかりますが」
「もろにせけめけときたら、どうなる?」
「もろにせけめけときたら、はかまかになりますな」
「はかまかになるな。はかまかに、はけえろそを加えるとどうなるかな?」
「そけへれになりますな」
「そけへれになるな。そけへれが出てきたら、むかしねが向こう側に、あるだろう」
「ええ、むかしねが向こう側にありますな」
「むかしねの横にはなにがある?」
「えェ?」
「むかしねの横にはなにがあるてェんだよ?」
「むかしねの横には、うりしらべがあります」
■いまでもこれに近い高座ってあるんじゃないでしょうか。むかしの音源を聞いていても、オチの意味がわかってるのかしら、と疑問に思う高座でも、どっと笑うでしょう? あれって、意味がわからなくても、とにかく下げになったから笑うところなんだろうと思って、わけもわからず笑ってるように思えてならないのですが。だいたい、いまのわたしにとっては、そのまま聞いていたらほとんど意味不明のオチが多くて、まわりにくわしい人がいるおかげでかろうじて下げの意味がわかるような具合です。
さすがに古典落語をそのまま演じるような人はいませんが(むかしと同じにやったってほとんど意味が通じませんからね)、反面、昔ながらのオチをそのまま使っている人も多いことも事実です。落語好きな人は古典落語のオチやストーリーはたいてい知っているんだから、そのまま演じるだけじゃだめだと思うのですが・・・ 人物の描写の細かさとか、話の奥行きとか、そういうところに力を入れているならいいのですけど、ふつうに演じてふつうに下げてるだけではだめですよね。
立川藤志楼さんは、オーソドックスな下げも使うことは使うけど、たいていは現代風にアレンジしたオチを考えてきてくださるので、最後まで楽しめます。もともと放送作家さんですから、古典のオチをそのまま使うことには抵抗感があるのでしょうね。そうでなくてはいけないと思います。落語に権威とか威厳とかを持たせたらだめですよね。芸術なんていって持ち上げてはいけないと思うし。芸術ではなくて、芸なんですよね。芸は大事にしないといけませんが、落語は芸術ではないでしょう?
なにをいいたかったのかというと、わけもわからず、ありがたがっていてはだめだということです。
タモリはこのパロディ落語で、そういうことをいいたかったのかなって思いました。当時のタモリは権威を否定する姿勢があったみたいですけど、最近はどうなのかな。たけしのように映画監督になったりしないだけ、ましなのでしょうか。(たけしの映画は好きですけど)