まずこれは映画なのだから必ずしも真実が描かれてるわけじゃない。現実にはこんなにかっこいい大統領なんていないだろうと思う。きっとアメリカの大統領はこうあってほしいという願望が多分に含まれているのだろうと思っても、それでもやっぱりかっこいいのだからしょうがない。
ハリソン・フォード演ずる役のような大統領がいたら、ほんと、素晴らしいだろうと思う。それと、彼に接する人々の態度が、常に大統領に敬意を払っていて、大統領を尊敬していて、アメリカの誇りに思っていることが、これまたかっこいい。尊敬に値する大統領だからなのだろうけど。
この映画の中の大統領は軍人出身であり、アメリカ軍の最高司令官でもあるから、空軍のパイロットなどがぴしっと敬礼する。その姿も美しい。軍隊そのものの是非は別にして、人に敬意を払うことがこんなにかっこよく見えることを再認識した。
軍人出身の大統領が自ら戦うっていう図式は映画 Independence Day にもあった。強いアメリカを象徴する描き方だ。日本の総理大臣には望むべくもない姿だろう。中には情けない大統領を描いた映画もあった。Escape form New York がそうだった。だけどこの映画はいまよりずっと前に作られたものだ。
Air Force One=大統領専用機の内部はどこまで本当かわからないけど(最高機密でしょうし)、ああいう飛行機を作ってしまうアメリカという国の持つ力には、感心するほかない。空対空ミサイルを回避する装置だとか、緊急脱出用ポッドだとか、そのまま戦略司令室になってしまうとか、すごい。
この映画にはいろいろ政治的なメッセージが含まれているかもしれない。強いアメリカを喧伝するような内容といえなくもない。だけど単純に娯楽作品と割りきって見ても、わたしはアメリカ国民であることを誇りに思った。これがこの映画の狙いだったのかもしれないが。
最後に大統領が救援機に救われた瞬間、それまでの輸送機が Air Force One になってしまうところなんて、惚れ惚れする。
それにしても、他国の上空であれだけ派手に戦闘機を撃墜してるのに、戦争にならないのだろうか。ついつい心配してしまった。でもアメリカだから大丈夫なのだろうか。もしかしてアメリカってやりたい放題?なんて疑問をつい持ってしまうほど。ま、映画だからいいか。
June 30, 1999
一方こちらは見終わったあとになんだかいやな気持ちにさせられる映画だ。
大統領選挙の直前にわき起こったセックス・スキャンダルから国民の目をそらすために、でっちあげの偽情報をマスコミに流すというもの。
同じ合衆国大統領を扱った映画でありながら Air Force One とは大違いだ。案外、こっちの大統領のほうが真実に近いのかもしれない。現実の大統領も似たようなことをしてるし…
それにしても、わたしたちがふだんテレビで見ているニュース映像、あのうちのどこまでが真実を伝えているのか心配になる。だいたい、ニュース映像というやつの多くは、放送までに必ず放送局によって編集されているものだからだ。真実というものは、生中継をしているときに突然起きたアクシデントくらいしか、もう残されていないのかもしれない。
最近のアメリカ映画が仮想敵にするのは国家ではなく、一部のイデオロギーに傾倒したテロリスト集団というパターンが増えてきた。しかもそのテロ集団は核を持っていたり、恐ろしい細菌兵器やら化学兵器やらを装備していたりする。しかもハイテクメカの重装備だ。なにをしでかすかわからないという点ではテロ集団のほうが国家よりも何倍も恐い相手だということは間違いない。
そういえばテロによるハイジャックを描いた最近の映画には Executive Decision があった。大好きなセガールおじさまが序盤でいなくなってしまったのにはショックだった。もし彼が残っていたら沈黙シリーズのような映画になってしまい、たったひとりで敵と戦いそうだ。それでは別の映画か(笑)
テロではないけど護送中の凶悪囚人たちによってハイジャックされたのが Con Air。軍服姿のニコラス・ケイジがかっこよかった(わたしは軍服に弱い?)。以前ホリー・ハンターと共演した彼を見たときは(なんて情けない人だろう)と思ったけど、最近は The Rock とか City of Angeles とかでかっこいいので見直した。
話がそれたけど、情報操作によって世論が形成されていくことをまざまざと見せつけられた Wag the Dog、ラストは笑うに笑えないし、わたしの中では好きな映画には数えたくないけれど、こういう映画も作れるぞというアメリカ映画界の姿勢は評価したい(わたしなんかに評価されたってちっともうれしくないだろうけど<ハリウッド)。
July 1, 1999
東京の下町生まれ、下町育ちで、いまは川ひとつへだてた千葉県に住んでいるが、里山のようないわゆる「いなか」と呼ばれるふるさとを知らないのはわたしも同じだ。
昭和41年当時の東京の風景(映画の中では練馬区でしたね、日大の芸術学部が近くにあるみたいだったから江古田あたりかな)などもちろん知らないが、それでも板塀に囲まれた狭い路地とか、夕方の商店街に母と一緒に買い物に行ったことなどはいまでもよく覚えているし、あの風景はわたしが子どものときにもまだあちこちに残っていたように思う。その後全国を襲ったバブル経済の地上げ攻勢に遭って、愛する下町も無惨な情況になってしまったが。
前半、ちびまる子ちゃんみたいな映画なのかと思ってほんわかムードで見ていたら、物語が山形に飛んでいってからはぐいぐいと引き込まれてしまった。有機栽培に情熱を燃やす青年が語る、日本の農業の問題点だとか、夏の農村風景の美しい描写や、紅花摘みをして紅を作り出すまでの過程とか、いままで知らずに過ごしていたことがたくさんたくさん出てきて、もう目が離せなかった。紅花に鋭いトゲがあることも知らなかった。むかしの女性が手を血だらけにしながら摘んでたことなど知る由もなかった。ただ京紅の美しさだけを見ていた。いなかの風景は人が自然に手を加え、自然と折り合いをつけながら人工的に作り上げたものだということにも気づかなかった。山も林も森も田んぼも小川も人が長い時間をかけて作り出したものなのに、いなかの風景は自然そのものだと思っていた。わたしはなにひとつ知らなかった。恥ずかしい。
夏の里山の美しさだけを見て、一年の大半を雪に閉ざされて暮らさねばならないことを見ていないわたしたち都会育ちの人間は、いいところだけしか見ようとしないずるい人間なのかもしれない。わたしは東京が好き。生まれ育った下町が好き。路地とちいさな児童公園でしか遊んだことがないけど、ちいさなわたしにとって東京は広くて大きな世界だった。こんなにたくさんの人がひしめいているなんてことは、大きくなってからわかったことだ。
わたしにはこの映画のヒロインのように山形で暮らしていく自信はないが、ラストシーンには感激して、また涙が出てしかたなかった。なぜ涙が出るほどうれしいのだろう。自分の生き方と信頼できるパートナーを得た彼女がうらやましいのだろうか。よくわからない。わたしにはまだ結婚なんて考えられない。仕事もしていない。将来、どういう道に進むのかもよくわかっていない。でも、どうしてだろう、彼女のような生き方がとてもうらやましく思えるのは。
July 4, 1999
先日13回忌を迎えられた石原裕次郎さん主演の映画。芸術祭参加作品だそうです。
終戦から15年後という時代背景がわからないと、この映画の内容も正確には理解できないかもしれない。現にわたしも、主人公が赴任してきた学校と、そこにいる札付きの不良生徒たちがなんなのかよくわからなかった。
映画を見続けているうちに、この子供たちは戦争で孤児になってしまった人たちなんだということがようやくわかってきた。空襲で親にはぐれたり、親を殺されたり、あるいは親から捨てられてしまった人たちなんだ。そういう孤独な子供たちがひとりで生き抜いていくためには、牙をむいて強がりをいって、弱みを見せないようにしないといけないんだ、そういうことがだんだんとわたしにもわかってきた。
少ない助成金で経営が苦しく、病気の子供に充分な治療もさせてあげられず、まともなお葬式さえ出してあげられないほど貧乏な学校で、役所はお荷物みたいに思っていて、校長の嘆願も取り合ってもらえないなんていう図式は、40年近くたったいまでもそのへんにありそうな話だ。日本ってあまり変わっていないんだな、と思う。
ところで、裕次郎さんの歯切れのいい東京弁。かっこいい!
この映画と前後して「男はつらいよ寅次郎忘れな草」を見て、渥美清さんも粋な東京弁を話すのにしびれた。ふたりとも見事な啖呵だ。ああいう小気味よい東京弁ってまわりでもあまり耳にしなくなった。東京の人が東京弁を話すと思ったらおおまちがい。ほとんどの人は標準語を話すけど、東京弁は話さない。
関係ないけど、昔の映画のセリフって早口で聞き取れないことが多いのだけど、昔の人ってみんなああやって早口でしゃべってたのかなぁ。
話がまた横にそれた。
なんだっけ? あ、やくざ先生のことだけど、共演は北原三枝さん。この映画は彼女が女優を引退するひとつ前の映画で、裕次郎さんとの結婚も決まっていたころだ。自信に満ちた瞳で彼をまっすぐ見つめてる。
July 11, 1999
戦艦、要塞、特急列車…と戦い続けてきたセガールおじさまが、環境問題をテーマにしてちょっぴりメッセージを込めて作った作品(プロデュースしてます)。かといってお堅い社会派映画というのでもなくて、小気味よい展開で、あいかわらずおじさま、おひとりで元気いっぱいに戦ってます。
だけどこれを「沈黙の断崖」と名づけた日本の配給会社、なに考えてるの? 沈黙シリーズとはぜんぜん関係ないのに、おじさまが出てればなんでも「沈黙の〜」かっつーの! は…いけない、ついつい地が出てしまった。
ところでクリス・クリストファーソンが出てたそうですが、気がつきました? わかる人、教えて欲しい。
◆おじさまの戦い方の特徴(笑):
有毒物質の不法投棄を摘発するために、単身ケンタッキーの片田舎のちいさな町に乗り込んだEPAの捜査官が、悪の本拠地を突き止めて悪の親玉を捕まえるっていうお話。EPAというのは捜査権も逮捕権もある連邦組織だから、敵側の郡警察が捜査妨害しようとしたって突っ張る突っ張る(^_^) 留置場にぶち込まれて救援を待つっていうのがいままでの映画でありがちのパターンだったけど、おじさまは頼もしいからそんなへぼなことにはならない。あっというまに数人の警察官を叩きのめしてしまう。はあ〜、見ていて爽快。別に警察がきらいなわけじゃないけど… Cop Landのスタローンなんてわたしよいなと思ってる。確か彼は保安官だから正しくは警察官じゃないけれどね。
- 一撃必殺! 何度もパンチを繰り出さない。目にも留まらぬ早技で敵の急所めがけておじさまの拳が一閃すると、相手は地面に転がっている。むだのない動き。たとえるなら、居合い抜きとでもいうような。
- 急所狙いもためらわない 男の人の急所(*^_^*)を狙うのってスポーツなら反則だけど、実戦のときはそんなこと気にしてたらこっちがやられてしまう。だから、おじさま、平気で狙います。あれって苦しいのでしょうか…男性の皆さん?
- 無敵 マンガのヒーローよりすごいかも。どんなに相手が強くても大人数でも、ぜったい負けません。相手の攻撃はほとんど当たらない。
おじさまには珍しくラブストーリーあり(イーストウッドのマディソン郡の橋を思い出しちゃった)。フェスティバルでギターを弾いて歌うシーンとか、ダンスをするシーン(Back to the futureVでクリストファー・ロイドとメアリー・スティンバーゲンが踊るような感じ。日本にはこういう習慣ないからつまんない)などもあってお得です。養蜂家(それほどおおげさじゃないけど)の恋人のために養蜂箱(っていうのでしょうか)を買いこんで戻ってきてくれたラストもおじさまらしくてステキ。
エンディングのテロップのバックには、ケンタッキーの炭坑で働いていた人たちの、当時の写真が何枚も映し出されます。これを見ていると、アメリカは最初、開拓から始まったんだよなーとしみじみ思う。いまでこそ世界唯一の大国になってしまったけれど。むかしこうやって体中真っ黒にして働いて、国を支えていた人々がいたんだと思うと、なんだか懐かしいような、ありがたいような、照れくさいような、複雑な感傷を持ってしまう。
田舎の町って、やっぱりいいなあ。
July 19, 1999
かつては炭坑の町としてにぎわいを見せ、掘り出した石炭を運ぶためにレールが敷かれたのだけど、時代の変化によってすでに廃線が決まってしまった、そんな北海道の寂しいローカル線の駅長さんが高倉健さん。親子2代にわたる鉄道員として生まれ育ち、鉄道は大好きなのだけど鉄道以外はちょっと不器用で、もうすぐ定年を迎えようとしている。
頭の中は鉄道のことでいっぱいで、職務に忠実で責任感に篤い人だから、自分の子どもが死んでしまったときも、奥さんが病気で亡くなってしまったときも、駅を離れることができなかった。だけど、彼はだれよりもなによりも家族を愛していた。それはね、生まれたばかりの赤ちゃんのために大きな人形をクリスマスプレゼントに買ってきてあげたり、奥さんのお骨を胸に抱えながら男泣きに泣いたことでわかる。男は人前でむやみに泣くものじゃないなんて無骨な考え方かもしれないけど、健さんにはそれがとてもしっくりくるから、どうしようもない。ストイックな美学っていうのかなあ。わたしなんかがいうまでもなくって、健さんってかっこいいよね。
病気の奥さんをひとり町へ送り出すシーンで、窓ガラス越しにそっと手と手を触れ合わせるところなんか、これが永遠の別れになることを予感していた奥さんの心をうまく表現していて、大竹しのぶさんうまいって思ったし、降旗康男監督にわたしじょうずに泣かされちゃった。
ところで、この映画はちょっぴりファンタジーでもあるの。あんまりくわしく話しちゃうと、興ざめしちゃうのでここではこれ以上は解説しないよ。広末涼子ちゃんの演技もとってもよかったよ、とだけいっておきましょう。あーうらやましい、Yoも健さんの胸に抱かれてみたい…
それにしても、北海道の冬ってすごい。想像を絶する雪景色。東京の雪はあれが雪か?って思わずいいたくなってしまうほど。そんなすごい雪が毎日ですものね。寒がりで軟弱なわたしなんか到底暮らせそうもない。
映画の舞台になった幌舞という駅は実在したのでしょうか? 廃線になってしまったローカル線はたくさんあったと思いますが、幌舞駅を探しても見つからなかった。当然いまの地図じゃなくて、20年前の地図を見て調べてみたのですが… たぶん、駅名は架空だと思うのだけどもし実在していたらぜひ教えてくださいね。
July 25, 1999
最初から最後まで息をのむアクションの連続に目を奪われてしまう。
この映画もまた、昨今のカオス的な様相を呈した国際情勢を背景にしたテロリズムが根底に流れてはいるけれど、犯人には同情できる点もあることはある。だからといって核爆弾を爆発させてもいいというわけではないが…
わたしたちがこうしてインターネットで遊んでいるときや、クーラーのきいた涼しい部屋でテレビを見ていたりする裏側で、殺戮におびえながら生活している旧ユーゴスラビアの人たちがいるわけで、どちらも同じ20世紀末の現実なのだ。
さて、ジョージ・クルーニー。この手の顔ってあんまりタイプじゃないのだけど(でもセクシー)、軍服姿もりりしく、アクションもきびきびしていて、なかなかかっこよかった。ウィーン市街地でのカーアクションなんて、あんなことしてだいじょうぶ?ってくらい徹底してて、ベンツやBMWやら燃やしちゃうし、よく撮影許可が下りたと思うくらい。で、彼は陸軍の情報将校で階級は大佐。口先だけのお偉いさんと違って実戦派だから(右肩にはレンジャーのマークが! かっこいい)、決断力と実行力がすごい。敵に対してはけっして容赦しない。だけどさ、オーストリア国内で何人も殺してるのに、警察に捕まらずに国外に出られるのはなぜ? 外交官じゃないのだから治外法権は認められないと思うんだけど…
共演のニコール・キッドマン。きれいな人。ちょっとメグ・ライアン系かな。彼女は元々核兵器の研究をしていた人で、大統領直属の対テロリスト部門(核密輸対策)のアナリストをしている。この作戦では指揮権を与えられているので、彼女も大活躍する。キューブリック監督の「アイズ・ワイド・シャット」ではどんなシーンを見せてくれるのか楽しみだ。
核爆弾っていうのは、たとえ周囲で火薬が爆発しても誘爆しないんだね。それくらい厳重に作っておかなければならないことは考えるまでもなく当然なのだけど、いったいどういう仕組みで起爆するのか知らなかった。映画の中でキーポイントになっていた≪起爆装置(コア)の殻をこわせば爆発しない≫ってどういうこと? 例によって調べてみたところ、起爆には2種類の方法があることがわかった。砲身型と内破型(爆縮型)といい、この映画に出てきた起爆装置は内破型のように思える。ボール状をした起爆装置の中心にスポンジのような状態でプルトニウム239があり、それをぐるりと火薬が包んでいる。さらに火薬のまわりは頑丈な殻によって覆われている。火薬に火がついて爆発した瞬間、外殻が固いために逃げ場がなくなった圧力は一気に中心部に向かい、プルトニウム239をぎゅっと圧縮する。圧縮されて臨界量に達したプルトニウム239は、核分裂の連鎖反応による大爆発を起こすというわけ。つまり、起爆装置の殻をはがしておけば、火薬が爆発したときのエネルギーは外部に向かって解放されるから、プルトニウムもいっしょに弾け飛んでしまい、核爆発を引き起こすことはないのだ。ちなみに、わずか1グラムのウラン235から得られるエネルギーは石油で約2300リットルもの燃焼に相当するらしい。まさに E=mc2 のすさまじさだと思う。
こうしてみると、核爆弾というのは原理的には非常にカンタンに作れるような気がする。要はプルトニウム239が手に入ればいいのだから。アメリカが他国のプルトニウムの取り扱いに対して神経質になるのはこういう理由からだったのか。映画を見て核爆弾の仕組みまで勉強してしまった。えーと確か沢田研二さん主演で核爆弾を手作りしてしまう高校教師の映画がありましたね。そういえばあの映画でも核爆弾は球状をしていたから「内破型」だったんだ。
だけど、こんなに恐ろしい核兵器が地球上にはいまどれくらいあるのかなあ。なんてこともつい考えたくなるような、ハードな映画でもあるのだ。映画の中でニコール・キッドマンがこんな意味のセリフをいっています。
「怖いのは核兵器を10基盗む人間より、1基欲しがる人間よ」
というわけで、この映画はオススメ度★★★★★の満点です。
July 26, 1999
7月4日というアメリカにとって特別な日に生まれた青年の物語。
幼いときから両親の期待を一身に背負って育ち、愛国心を植え付けられて育った彼が、自ら志願してベトナムに行き、戦い、負傷して帰還したのち、戦争の無意味さを悟り、過ちに気づき、国家の欺瞞を訴え、反戦活動に身を投じるまでの姿を描いたもの。
1968年、わたしが生まれる10年前にこんなに重い戦争があったのだ。戦争に重い軽いはないけれど、ベトナム戦争はアメリカにとっても非常に重くディープな戦争だったのだと思う。映画の中でもいっていたけど、アメリカはどうしてよその国のことに首を突っ込みたがるのだろうか。確かに当時はソビエトなどの社会主義勢力の台頭を防ぐという意味があってしたことだとは思うのだけども。それにしても、共産主義あるいは共産主義者を目の敵にして攻撃しようとする当時のアメリカ人のほうが、わたしよっぽど恐いと思った。
大勢の若者を無為に殺してしまったベトナム戦争、この戦争がまちがっていたことを堂々と映画にして自己批判できるアメリカだけど、いまでも戦争に関してはあまり変わっていないような気がする。まちがったことはまちがっていると、声を大きくしていえる国でいつまでもあってほしい。
ところで、当時これだけ大きな反戦運動があったということを初めて知った。ヒッピーというのはこういう人たちだったのか。わたしたちがよくやるピースサインも、ここから生まれたのね。その意味も知らずピースサインを出してるわたしたちってちょっと恥ずかしいと思った。
どんな戦争だって、泣くのはひとりひとりの国民なんだと、みんながそう思えるようになればいいのだけど…
August 3, 1999
死のトラップが張り巡らされた立方体の集合体に閉じ込められた男女数人が、脱出しようとする話なのだけど、背景的な説明がほとんどなく、いったいここがどこなのか、彼らはどういう理由でここに連れてこられたのか、いっさいわかりません。本人たちもわからないし、観客の私たちにもわかりません。
上下左右にある六ヶ所のハッチを開けると、そこには隣のキューブがあり、延々と続く無間地獄のような絶望感を味わいつつ、彼らは脱出を試みます。理不尽に密閉され、希望もない情況に置かれた人間が見せる、エゴ丸出しの状態をへて、やがて彼らは一縷の望みを見いだします。が…
閉所恐怖症の人には耐えられない映像で、ラストまで見終えても、なんだか人間のいやな面ばかりが目立ってちょっと苦しいのだけど、内容はとても斬新。納得がいくほどの説明がなにもないせいでしょうか。なぜ彼らがここにいるのか、このCUBEの意味はなんなのか、そういうものがいっさいないせいでしょうか。わかっているのは監督だけなのかもしれません。
だけど、ぞっとする恐怖を味わえます。いわゆるホラーとかスプラッターじゃないけれど、この映画は恐い。じわじわとした恐怖感。なんていえばいいのかな、理性的な恐怖とでも名づけましょうか。
これをゲーム感覚と評した人もいますが、わたしにはそこまで考えられませんでした。でも、現実と隣合わせでこういう世界も実際にありそうで、いつわたしがこの世界に連れてこられるかもしれないかと思うと、なんだか恐くてたまらない気分でした。
三次元行列だとか素数だとかがキーワードなのだけど、わたしにはさっぱりわかりません。すこしは数学を勉強しておこうかしら…
August 12, 1999
日本のゴジラも水爆実験の放射能汚染で巨大化したのだけど、本作のゴジラもフランスの核実験による放射能によって南太平洋の島にいたトカゲが巨大化してしまったという設定です。コモドドラゴンとイグアナが合体したようなGODZILLAは、従来のゴジラが垂直方向だとしたら、水平方向とでもいいましょうか。4本脚でトカゲのように這うこともするし、後ろの2本脚で高速移動もするし、ビルや橋をひょいっと跳躍だってしちゃいます。おまけに泳ぎも大得意。泳ぎはまるで海イグアナそっくりだけど、サカナが大好物だからその点は海草を食べている海イグアナとはちがいます。
序盤で、島に残された信じられないくらい大きな足跡をヘリコプターから俯瞰するシーンがあるのだけど、その大きさや、足跡と足跡の距離が驚くほど離れていることによって、どれだけ巨大な生物かを暗示させるなんていうことは、いままでのゴジラ映画には見られなかったことで、ハリウッドらしいなあと妙に感心してしまいました(ゴジラ第1作で、丘の上から浜辺に残された足跡を見るシーンがあったけど、あまりにも遠すぎて巨大な感じがまったくしなかった)。
GODZILLAがニューヨークの街中を、高層ビルを破壊しながら走り回るシーンなんて、ドキドキもの。尻尾の先がビルをかすめると、そこだけばらばらばらっと崩れ落ちるなんて芸が細かくて、ナイス。軍隊に追われるGODZILLAになぜかがんばれっていいたくなってしまうのは、なぜなんでしょうね。GODZILLA、負けるななんてね。
中盤はなんとなくジュラシックパークやエイリアンを思い出してしまいました。それになんだか、かわいそうな気がしてならなかった。無責任なセンチメンタリズムだっていうことは承知しているのですが… その思いはラストにかけても同じでした。GODZILLAに生まれてきた責任はないのですよね。それなのにGODZILLAの生存を認めない理由は、ただ人より大きくて、街を破壊するから、それと放っておいたらどんどん増えて人間が滅亡するからだっていうのだけど、それは人間の勝手な言い分じゃないだろうかと思いました。でもまあ、実際、あんなのがいたら殺すしかないのでしょうが… T-REXよりはるかに大きい生物なのですものね。どこかに保護区を作ってそこで暮らさせるわけにはいきませんよね。海だって泳いじゃうからすぐ逃げ出しちゃいそうだし… 人間にはとても管理できないことはわかるのですが… わたしが甘いのでしょうか。エイリアンが殲滅されても良心の痛みは感じないのに、GODZILLAに対してはなぜだかとてもひどいことをしてしまったような気がしてなりませんでした。みなさんはこの映画をご覧になってどのような感想を持ちましたか?August 15, 1999